孫子の名言「故に善く戦う者は、人を致して人に致されず」の間違い

孫子兵法「虚実篇」の「故善戰者、致人而不致於人」(原文:中國哲學書電子化計劃「銀雀山漢墓竹簡(孫子)」)は最も有名な名言の一つです。様々な場面で引用されることが多い一句ですが、実はかなり都合よく解釈されています。ここでは間違いのポイントを説明した上で、素直に解釈した場合の解読文について説明します。

参考:其六1-2 善ありて故らしめて戦う者は、人を致すも人に致さること不し。

一般的な書き下し文及び解読文

一般的な書き下し文故に善く戦う者は、人を致して人に致されず。
一般的な解読文だから主導権を握った戦上手は、
相手を思い通りに動かして、相手の思い通りに動かされることはない。

一般的な解釈について要約すれば、敵軍を思い通りに動かすには主導権を握ることが大切だと説いたと言えます。この解釈結果だけを見ると、汎用性の高い有用な教えと感じるかもしれませんが、漢字の意味と話の流れを一つひとつ確認していくと疑問点が浮かび上がってきます。

一般的な解釈に対する疑問点

この句に対して最初に生じる疑問点は、漢字「致」には”思い通りに動かす”意味がないことです。そのため、なぜ漢字「致」で”思い通りに動かす”と解釈されているのか?、その理由について検証しておく必要があります。

これは当サイトの憶測ですが、一般的には一つ前の其六1-1「先處戰地而侍戰者失、後處戰地而趨戰者勞」で”先に戦場に到着する自軍は安泰であり、遅れて到着する敵軍は疲弊して不利である”と解釈されており、これによって敵軍を思い通りに動かせる条件とする主導権を握ったと仮定したようにと思われます。

その上で、漢字「致」の”導く”や”まねき寄せる”の意味から転じて”思い通りに動かす”と解釈したのではにないか?と感じますが、其六1-1を”先に戦場に到着する自軍は安泰であり、遅れて到着する敵軍は疲弊して不利である”と解釈するならば、常識的に考えて疲弊している敵軍は危機的状況を回避するために慎重に行動すると思われるため、果たして”思い通りに動かす”ことができるのかが疑問です。

また、先に戦場に到着することで自軍が主導権を握るような話の流れになっていますが、先に戦場に到着しただけの記述で、主導権を握ったと解釈するのは飛躍が大き過ぎると感じます。主導権を握るためには、常に自軍が先手を打ち、その結果、敵軍を後手に回らせることを実現する仕掛けが必要と思われますが、この時点ではその説明がありません。そのため、この時点で主導権について触れるのは間違いだと思われます。

当サイトにおける解釈結果と理由

書き下し文善ありて故らしめて戦う者は、人を致すも人に致さること不し。
解読文戦地を先制する利点を得て敵軍を劣勢にさせた上で、
軍隊の勢いで優劣を争う将軍は、
恐れ震えて逃亡する敵兵達を招き寄せても、
戦地に遅れた敵将軍によって自軍の兵士達が招き寄せられることは無い。

話の流れを掴む

この句を解釈するためには、やはり一つ前の其六1-1「先處戰地而侍戰者失、後處戰地而趨戰者勞」の解釈について確認して、話の流れを掴んでおく必要があります。結論から言えば、其六1-1①「立場の優劣を争って戦地を先制した将軍が敵軍に諫言すれば恐れ震える敵兵達が逃亡し、立場の優劣を争っても戦地に遅れた将軍は差し迫って敵軍と優劣を争う方法について悩む」という解読文になります。

参考までに補足しておくと、其六1-1の一般的な原文は後世に漢字三つが置き換えられており、本来の原文からは”先に戦場に到着する自軍は安泰”といった解釈は出てきません。先に戦地に到着するのか、遅れて到着するのか?の視点を持って、素直に解読すれば前述のような意味になるはずです。

この解読文によって次の展開は、”戦地を先制した時に恐れ震えて逃亡する敵兵達”と”戦地に遅れて優劣を争う方法について悩む敵将軍”について、新たな内容が説かれる展開、又は詳しく説明した内容のいずれかになるだろうと推察できるようになります。

「故善戰者、致人而不致於人」について

さて、話の流れが大枠で把握できた後、「故善戰者、致人而不致於人」を解読する時は、「故善戰者」の部分は多種多様に解釈し得るため後回しにします。

まず、”戦地を先制した時に恐れ震えて逃亡する敵兵達”と”戦地に遅れて優劣を争う方法について悩む敵将軍”について教えが展開されるのであれば、二つの漢字「人」は、それぞれ「恐れ震えて逃亡する敵兵達」と「戦地に遅れた敵将軍」を指すと仮定できます。

この仮定を踏まえて漢字「致」を確認すれば、”招き寄せる”の意味を採用することで、前者は「恐れ震えて逃亡する敵兵達を招き寄せる」という解釈が成り立ち、その解釈との対比と考えれば「戦地に遅れた敵将軍によって自軍の兵士達が招き寄せられることは無い」という解釈に至ります(漢字「於」は”~によって”の意味がある)。

つまり、話の流れさえ掴んでおけば、後半部分は書き下し文「人を致すも人に致さること不し」で「恐れ震えて逃亡する敵兵達を招き寄せても、戦地に遅れた敵将軍によって自軍の兵士達が招き寄せられることは無い」という解読文が比較的簡単に出来上がります。

後半部分の文意が一つ前の其六1-1を詳しく説いた内容だとわかれば、前半部分の「故善戰者」も其六1-1の意味を積み上げて解読するのだろうと察しがつきます。ここからは漢字一つひとつの意味を仮決めしながら解釈の試行錯誤を何度も繰り返して、辻褄の合う解釈を根気よく探し当てる作業となります。

そのため、結論だけ挙げることにしますが、漢字「善」は“長所”の意味を採用して其六1-1①「立場の優劣を争って戦地を先制した将軍が敵軍に諫言すれば恐れ震える敵兵達が逃亡する」の意味を積み上げると考察すれば、「戦地を先制する利点」と解読できます。この「善」が接続詞のような役割をして、一つ前の句から話の流れを繋いでいます。

次に、漢字「故」は“衰える”の意味を採用すれば、其六1-1①「立場の優劣を争って戦地を先制した将軍が敵軍に諫言すれば恐れ震える敵兵達が逃亡し、立場の優劣を争っても戦地に遅れた将軍は差し迫って敵軍と優劣を争う方法について悩む」をまとめて”戦地を先制して敵軍を劣勢にする”ことを表現していると考察できます。その結果、漢字「故」は使役形で「敵軍を劣勢にさせる」と解読できます。

最後に、漢字「戦」については、後半部分「恐れ震えて逃亡する敵兵達を招き寄せても、戦地に遅れた敵将軍によって自軍の兵士達が招き寄せられることは無い」に繋がることを踏まえれば、このような状態になる要因を「戦」一字で表現していると推察できます。

その結果、「孫子の名言「是の故に百戦百勝は善の善なる者には非ざるなり」の間違い」で解説した”孫子兵法が推奨する戦い方”に基づき、其五5-1④「荒々しい軍隊の勢いで優劣を争って敵軍を劣勢にさせる優れた将軍は思いやりの才能がある」等の記述を参考にすれば、軍隊の勢いによって敵兵達を逃亡させる等の記述が入ると推察できます。その結果、「戦」は“優劣を争う”の意味を採用して「軍隊の勢いで優劣を争う」と補って解読すれば良いとわかります。

これら解釈をまとめると、書き下し文「善ありて故らしめて戦う者は、人を致すも人に致さること不し」で「戦地を先制する利点を得て敵軍を劣勢にさせた上で、軍隊の勢いで優劣を争う将軍は、恐れ震えて逃亡する敵兵達を招き寄せても、戦地に遅れた敵将軍によって自軍の兵士達が招き寄せられることは無い」と辻褄の合った解読文に仕上がります。


このように解釈すると、この句の本意は、自軍の勢いが敵軍を凌駕することによって、逃亡する敵兵を出現させること、自軍からは逃亡者が出現しないことにあるとわかります。ちなみに、結果的に”思い通りに動かす”ような一面が出てきますが、その要因は主導権ではなく「軍隊の勢い」にあります。

また、一般的な解釈における”思い通りに動かす”は自由自在に敵を操るような意味合いだと推察されますが、「軍隊の勢い」によって敵兵達を逃亡させる時は一定の法則が働いた現象となります。わかりやすく言えば、前者は逃亡する行き先まで自在に操るが、後者は敵兵達の逃亡という現象を生じさせるまでの作用です。

この解釈の妥当性を後押しする記述として逃亡する敵兵達の行き先を操る教えがあり、其十一4-4⑥「獲物となった敵部隊を奇策部隊の隠れている場所に至らせる理由は、固定された戦車の馬と操縦士がいない場所を奇策部隊に行き着く場所にするからであり、魚を釣るように獲物となった敵部隊を誘き寄せて攻め取るのである」で具体的なやり方が説かれています。これは逃亡した敵兵達が「固定された戦車の馬と操縦士がいない場所」に向かうように仕向ける教えです。このように周到な準備があってこそ、自軍が先手を打ち、その結果、敵軍を後手に回らせることを実現する仕掛けとなり、自軍が主導権を握るに至るのではないか?と推察します。

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