孫子の名言「必死は殺され、必生は虜にされ、忿速は侮られ、廉潔は辱められ、愛民は煩わさる」の間違い

孫子兵法「九変篇」の「必死可殺。必生可虜。忿速可侮。潔廉可辱。愛民可煩。」(原文:中國哲學書電子化計劃「銀雀山漢墓竹簡(孫子)」)は有名な名言の一つであり、将軍として相応しくない者の特徴について説明しています。しかし、一般的な解釈の特徴は、他句と不整合であったり、非合理的であったり、よくわからない内容になっています。ここでは他句の教えとも整合した、漢字の意味に素直に従った解読文を紹介します。

参考:其八3-2 必して死すこと可くものは殺すなり。必して生なるを可くものは虜にせらるなり。速くものの忿ること可くものは侮られるなり。廉なる潔きものを可くものは辱めらるなり。民を愛でること可くものは煩なるなり。

一般的な書き下し文及び解読文

一般的な書き下し文必死は殺され、
必生は虜にされ、
忿速(ふんそく)は侮られ、
廉潔(れんけつ)は辱められ、
愛民は煩(わずら)わさる。
一般的な解読文決死の覚悟で戦う思慮の浅い将軍は殺され、
生きることに執着する、勇気のない将軍は捕虜にされ、
短気で怒りっぽい将軍は侮られて計略にはまり、
清廉潔白な将軍は計略に陥って辱められ、
兵士を愛する将軍はその兵士の世話で苦労する。

一般的な解釈は、どこか物語の場面を凝縮したような人物像であり、なんとなく納得しやすい記述になっています。しかし、原文と解読文をよく見比べてみると、漢字の意味にはない”意味”でかなり補われており、その”意味”は他句の内容と整合しないため合理的に積み上げられたものとは思えません。

将軍として相応しくない五種類の存在が登場しますが、その全てに疑問点があるため、その疑問点を一つひとつ説明した上で当サイトの解釈について紹介いたします。

一般的な解釈に対する疑問点

この句を解釈するために、一つ前の其八3-1①「故將有五危」の「災いを起こす将軍は五種類存在し、自軍に危害を与えるのである」を確認しておきます。

其八3-1の解釈に基づけば、この句に登場する五種類の将軍は、必ず”災いを起こし、自軍に危害を与える結末”になるはずです。この点においては、一般的な解読文も特に問題なさそうです。

其八3-1の解釈をわざわざ確認した理由は、これが五種類の将軍の説明に対する上位概念であり、この概念から外れた方向に解釈しないことが大切だからです。

<必死可殺:必死は殺さる>

「決死の覚悟で戦う思慮の浅い将軍は殺される」に対する疑問点は、其十一1-10①「敵と命を取り合う覚悟が必要な戦地「死地」」等の記述があり、戦地「死地」では決死の覚悟を持って戦うことが説いています。戦地「死地」で命懸けで戦うのは兵士達かもしれませんが、その戦闘で敗北すれば将軍の死に繋がる可能性があるため、他句の教えと整合していない可能性があります。

なお、将軍が殺害されるに至る要因として、何故か”思慮の浅さ”と補われており、戦略、戦術を軽んじる将軍に限定していると推察されます。これによって辻褄の合う内容になっていますが、”思慮の浅さ”と補える合理的な手掛かりがないように思われます。

<必生可虜:必生は虜にさる>

「生きることに執着する、勇気のない将軍は捕虜にされる」に対する疑問点は、其三1-1①「完全な状態に保つことを上策と見なす」の教えから類推すれば、孫子兵法の方針として”生きることに執着する”ことは是と思われます。おそらく”勇気のない”と補うことで、敵から攻撃されても反撃できず、最後には捕虜にされるという解釈だろうと推察できます。

しかしながら、生きることに執着すれば、準備を怠ることなく防御を固めると想像でき、敵の攻撃で容易く崩れることは無いと思われます。万が一、敵が本陣に攻め込む状況になっても、将軍は早い段階で逃走するものと思われます。このように解釈すると、生きることに執着すれば捕虜になる解釈は間違いではないか?と疑問が生じます。

<忿速可侮:忿速(ふんそく)は侮らる>

「短気で怒りっぽい将軍は侮られて計略にはまる」は、補われた”計略にはまる”を除いても十分にあり得る解釈になっています。一般的な解釈だけを読んでいても、大きな疑問が湧かない部分です。

しかしながら、其三6-2⑥「過失を抑制することだけに集中する理解者が、大いに将軍の知恵の無さを明らかにして考え方を正せば、将軍は自分自身を理解する」の教えがあり、将軍に”短気で怒りっぽい”という未成熟な部分があっても理解者が指導すると思われます。

また、其十5-5⑧「(災いが起こった時)将軍の知恵の無さを明らかにする理解者は、「知識を得ても上辺だけだった将軍の罪である」と説くのであり、知識を知恵にすることを怠けることが無くなって、そうしてはじめて優れた将軍となるのである」の教えもあることから、どのような将軍も最初は未熟であり、指導者の助けを得て一人前に成長していくことがわかります

そうすると、将軍に”短気で怒りっぽい”という未成熟な部分があるだけでは、”災いを起こし、自軍に危害を与える結末”にはならないとわかります。つまり、「忿速可侮」は意味において不整合と言えます。

<潔廉可辱:廉潔(れんけつ)は辱めらる>

「清廉潔白な将軍は計略に陥って辱められる」は、一般的な解釈では、私欲がない意味合いを含む”廉潔”や”清廉潔白”といった言葉で将軍を形容するにも関わらず、自分の名誉や高潔さという”私欲”を守ろうとする説明が多く、その場合は矛盾となります。

仮に”私欲”の話は除外して考えた場合、清廉潔白であれば計略に陥ることに合理性はなく、ましてや”辱められる”理由もないはずです。そのため、この解釈は非合理で理解しがたい内容になっていると思われます。

<愛民可煩:愛民は煩(わずら)わさる>

「兵士を愛する将軍はその兵士の世話で苦労する」は、一般的な解釈だけを読んでいると、他句において”兵士達を赤子のように可愛がれば危険な場所にいける”や、”兵士達を日頃から可愛い我が子のように扱えば戦地で生死を共にできる”という解釈をしていることと矛盾するため、これが大きな疑問点となります。

なお、その他句は其十4-1「視卒如嬰兒、故可與之赴深谿」と其十4-2「視卒如愛子、故可與之倶死」であり、当サイトの解釈では其十4-1「隊長が、子供にまとわりつくように過剰に世話を焼いて兵士達を扱うならば、親しく付き従っている兵士達を率いて、わざわざ外界から遠く離れた山中の川に出かけるべきである(そして、死に向き合わせる)」と、其十4-2「将軍が、我が子ように慈愛して可愛がるように溺愛して兵士を扱うならば、戦争が起こった時は、可愛がるその兵士と一緒に「死地」で敵軍に抵抗させるべきである」と真逆の方向性で教えが説かれています。

これはほぼ結論ですが、「愛民可煩」について当サイトの解釈と一般的な解釈は、概ね一致しています。つまり、一般的な”兵士達を赤子のように可愛がれば危険な場所にいける”や、”兵士達を日頃から可愛い我が子のように扱えば戦地で生死を共にできる”という解釈の方が間違っており、矛盾が生じているのです。

当サイトにおける解釈結果と理由

書き下し文必して死すこと可くものは殺すなり。

必して生なるを可くものは虜にせらるなり。

速(まね)くものの忿(いか)ること可くものは侮られるなり。

廉なる潔(いさぎよ)きものを可くものは辱めらるなり。

民を愛(め)でること可くものは煩(はん)なるなり。
解読文自説にしがみついて死刑に処すことを許容する将軍は、
兵士達の士気を殺ぐのである。

自説にしがみついて兵士達の未成熟さを許容する将軍は、
兵士達を生け捕りにされるのである。

自軍に迎え入れた元敵兵が憤る状態を許容する将軍は、
他の兵士達から見下げられるのである。

潔白な心構えで間者を使わない高尚な者を許容する将軍は、
兵士達から貶められるのである。

兵士達を可愛がることを許容する将軍は、軍隊を掻き乱すのである。

この句は、八通りの解読文が成立する構造であり(参考:孫子兵法の構造と解読方法)、ここで紹介する主たる解読文(一通り目)を一意に得るためには、数多くの試行錯誤を繰り返して、残り七通りの解読文が成立するか否かで検証しなければなりません。但し、その全てを解説すると大変な長文となるため、ここでは上記の表に掲載した主たる解読文のみ説明します。


この原文をパッと見ただけでは、主語となる将軍を指す漢字が無いように思えます。これは試行錯誤する過程で徐々にわかってくるのですが、実は、五つある漢字「可」が主語の将軍を示しています。

具体的には”許す”の意味を採用して「可(き)くもの」で「許容する将軍」と解読することになります。その結果、「可」より左側の二字で許容する内容を説明して、「可」より右側一字で許容した結果を説いているのです。これは何か手掛かりがあって読み解くというよりも、結果的に見えるパターンです。都度ひとつひとつを合理的に説明するのは難しいため、説明の便宜上、最初からパターンがわかっている前提で説明していきます。

※実際に行った解読作業では「必死可殺。必生可虜。忿速可侮。潔廉可辱。愛民可煩。」の三つ目「忿速可侮」あたりでパターンに気付きました。

「必死可殺」について

前述したパターンに基づき、主語は「可」で「許容する将軍」となり、「必死」で災いを起こす将軍が許容する内容が説明されており、「殺」で許容した結果が説かれています。

そこで”災いを起こし、自軍に危害を与える結末”を見据えて漢字「死」を確認すれば、”死刑に処す”という意味があることに気が付きます。次に死刑に関する記述の有無を探せば、最も近いものとして其六5-2③「敵部隊を武力で傷つけて攻め取ることに成功すれば真心のある法規や決まりを使うのであり、となると、鞭打つ処罰は存在しないのである」の”鞭打つ処罰”に辿り着きます。そして、この”鞭打つ処罰”は、漢字「刑」を解読したものであり、「死刑を含む重大な身体的仕置き」の意味合いがあります。

この其六5-2③の解読文を手掛かりにすれば、「必死可殺」は、「真心のある法規や決まり」に反する行動を取る将軍に関する記述だとわかり、漢字「死」は”死刑に処す”の意味で確定できると判断できます。

すると漢字「必」は”自説にしがみつく”や”決行する”等の意味が適合するとわかります。いずれの意味でも良さそうですが、ここでは”孫子兵法の教えを受けても、その教えを守れない将軍”の意味合いと解釈して”自説にしがみつく”を採用した。結果、「必死可」は「自説にしがみついて死刑に処すことを許容する将軍」となります。

そして、漢字「殺」は、「死刑に処す」ことによって生じる状態であるため、素直に考えれば”“命を絶つ””意味となります。この意味に従って”(死刑に処して)兵士達を殺す”と解読するのも一案ですが、それでは何ら新たな意味を加えた教えになっておらず、むしろ「真心のある法規や決まり」に反した死刑を肯定した印象となります。

そこで、漢字「殺」の“命を絶つ”の意味に積み上げられる他句の教えを探してみると、其七6-2①「是故、朝氣兌、晝氣惰、暮氣歸」の「帰」の“死ぬ”と同意だろうと気付き、其七6-2①「道理は、早朝の士気は旺盛であり、昼間の士気は緩み、夕暮れ時の士気は殺がれるのである」の「夕暮れ時の士気は殺がれる」を指すと解釈できます。

つまり、死刑に許容する者が将軍の立場にいることで、その将軍が率いる軍隊の兵士達の士気が殺がれるのだと考察できます。

これら解釈の結果に基づき、書き下し文「必して死すこと可くものは殺すなり」で「自説にしがみついて死刑に処すことを許容する将軍は、兵士達の士気を殺ぐのである」と解読できます。

「必生可虜」について

前述したパターンに基づき、主語は「可」で「許容する将軍」となり、「必生」で災いを起こす将軍が許容する内容が説明されており、「虜」で許容した結果が説かれています。

そこで”災いを起こし、自軍に危害を与える結末”を見据えて漢字「生」を確認すれば、”未成熟の”という意味があることに気が付きます。

この”未成熟”の意味に気付くだけで、軍隊や兵士達の未成熟さを将軍が許容することで災いが起こる文意が見えてきます。

そこで漢字「虜」を確認すれば”生け捕る”の意味があるため、軍隊や兵士達が未成熟であれば生け捕りにされる、としっくりとくる解読文が浮かび上がってきます。

残る漢字「必」は”自説にしがみつく”や”肯定する”の意味が適合しそうですが、軍隊や兵士達が未成熟であることを将軍が肯定するとは考えづらいため、”自説にしがみつく”の意味が相応しいとわかります。この「必生可虜」は、漢字の並びから「必死可殺」と対句のような関係に見てとれますが、「必死可殺」の「必」と採用する意味が一致するため、やはり対句のようなリズム感を持って記述されており、二つの「必」は”自説にしがみつく”で適当なのだろうと判断できます。

これら解釈の結果に基づき、書き下し文「必して生なるを可くものは虜にせらるなり」で「自説にしがみついて兵士達の未成熟さを許容する将軍は、兵士達を生け捕りにされるのである」と解読できます。

「忿速可侮」について

前述したパターンに基づき、主語は「可」で「許容する将軍」となり、「忿速」で災いを起こす将軍が許容する内容が説明されており、「侮」で許容した結果が説かれています。

そこで”災いを起こし、自軍に危害を与える結末”を見据えて漢字「速」を確認すれば、”迎え入れる”という意味があることに気が付きます。

この「速」の”迎え入れる”は、漢字「忿」が”憤る”や”恨む”の意味になることを踏まえて其七4-1③「褒美の品によって攻め取った敵兵達の心を揺さぶるのであり、喜んで自国に寝返る敵兵達は、自軍の兵士達と考え方を合致させるのである」等の記述から類推すれば、自国に寝返ったと思って自国に”迎え入れた”元敵兵を指すとわかり、さらに、その寝返った姿勢は表面的で実は考え方を合致させていない状態と解釈できます。

そのため、「忿速可」は「自軍に迎え入れた元敵兵が憤る状態を許容する将軍」と解読できることがわかります。このような将軍が、例えば元から自軍に従事している兵士達からどのように評価されるのかを想像しみてると、漢字「侮」で”見下げる”の意味を採用して、他の自軍の兵士達から見下げられる文意になるだろうと察しがつきます。

これら解釈の結果に基づき、書き下し文「速(まね)くものの忿(いか)ること可くものは侮られるなり」で「自軍に迎え入れた元敵兵が憤る状態を許容する将軍は、他の兵士達から見下げられるのである」と解読できます。

「潔廉可辱」について

前述したパターンに基づき、主語は「可」で「許容する将軍」となり、「潔廉」で災いを起こす将軍が許容する内容が説明されており、「辱」で許容した結果が説かれています。

しかし、”災いを起こし、自軍に危害を与える結末”を見据えて「潔廉」の漢字を確認しても、実は辻褄の合いそうな組み合わせは簡単に見つかりません。

その要因は、漢和辞典に掲載されている意味を表面的に受け取っていると、その意味が指す具体的な事柄がわからない漢字があるからです。

結論を言えば、表面的な意味からは具体的な事柄がわからない漢字は「廉」の”潔白なさま”という意味であり、“潔白”とは、うしろ暗い所がない状態であり、うしろ暗い所は秘密裏に間者を使うことと解釈できます。つまり、この部分は間者を使うことを許容できない将軍について説くとわかります。

この解釈に辿り着けば、漢字「潔」は”高尚なさま”の意味であり、「潔廉可」で「潔白な心構えで間者を使わない高尚な者を許容する将軍」と解読できます。この将軍は兵士達からすれば頼りない存在と感じるのではないかと推察でき、漢字「辱」は”名誉などを貶める”の意味になることが比較的簡単にわかると思います。

これら解釈の結果に基づき、書き下し文「廉なる潔(いさぎよ)きものを可くものは辱めらるなり」で「潔白な心構えで間者を使わない高尚な者を許容する将軍は、兵士達から貶められるのである」と解読できます。

「愛民可煩」について

前述したパターンに基づき、主語は「可」で「許容する将軍」となり、「愛民」で災いを起こす将軍が許容する内容が説明されており、「煩」で許容した結果が説かれています。

そこで”災いを起こし、自軍に危害を与える結末”を見据えて漢字「愛民」を見れば、前述した其十4-1「視卒如嬰兒、故可與之赴深谿」と其十4-2「視卒如愛子、故可與之倶死」に該当する将軍を指すとわかり、「愛民」で「兵士達を可愛がること」と解釈できます。

そして、漢字「煩」は、其十4-3①「特定の兵士を優遇して働かせることができず、可愛がって命令することができなければ、軍隊を掻き乱して統治することができない。この者に言い聞かせてもわがままに振舞う子供のようであり、将軍に任用するべきではないのである」の記述に基づき、”掻き乱す”の意味を採用することがわかります。

これら解釈の結果に基づき、書き下し文「民を愛(め)でること可くものは煩(はん)なるなり」で「兵士達を可愛がることを許容する将軍は、軍隊を掻き乱すのである」と解読できます。

<補足>
ここで紹介した主たる解読文は、それぞれ話が展開していき、災いがどんどん大きくなっていく様子や理由が説かれています。この句から読み取れることは、五種類の災いを起こす将軍について紹介すると共に、その災いは小さい内に断ち切ることが大切だという教えです(各災いを小さい内に断ち切る方法は、随所で説かれています)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。