黄帝が他四帝に打ち勝った四種類の「山、陸、水、斥」について考察

孫子兵法には、黄帝が、他の四帝に打ち勝った際に、四種類の軍事を駆使したとあります(行軍篇)。その「四種類の軍事」の内容が、魏の曹操が編纂した「魏武注孫子」と「竹簡孫子」で異なる点があり、ここではそれについて考察していきます。なお、この黄帝の系譜にある舜から、後に夏王朝を創始する禹(う)に禅譲されたため、文明の創始者、民族の祖とされているようです。

四種類の軍事の違い

魏武注孫子における四種類の軍事は、「山岳、河川、沼沢、平地」と解読されており、「斥沢(せきたく)」で沼沢と解釈してあります。新訂孫子(岩波)によれば、「斥」を荘子の釈文から「沢」と同義と見なして、「湿地で痩せた土地」と注釈されています。

一方、当サイトが解読した四種類の軍事は、「高くそびえた山、高くて平坦な土地、河川、乾燥地」と解読しており、「斥(せき)」一字で「乾燥地」と解釈しております。漢辞海(三省堂)によれば、「斥」には”塩辛い土地”の意味があるため、「『乾燥地における塩類集積の脅威と対策』鳥取大学 乾燥地研究センター 特任教授 北村義信」で記述された「可溶性塩類を多く含む母岩が風化して形成された土壌が存在する地域」に該当すると考察した結果、「乾燥地」と解読しています。

つまり、「沼沢」と「乾燥地」という、真逆とも言える違いが生じていることになります。

「沼沢」と「乾燥地」の違いが生じる理由

まず、そもそもの話として、この四種類の軍事を「黄帝が、他の四帝に打ち勝った際に駆使した」ことが重要だと思われます。黄帝は夏王朝以前の存在であり、現在ほど支配する範囲は広くなかったと言われていることを考慮すれば、夏・殷・周王朝周辺における戦争だったと推察できます。

また、春秋戦国時代において、各国が夏・殷・周王朝あたりの中心地を得ることで正統主張を目指した可能性が高いとすれば(「中国の歴史2 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国」参照)、湿潤温暖な江南地方等は除外されるため、砂漠や乾燥地が多い北側に地域が主体になってくると予想されます。

つまり、黄帝が駆使した四種類の軍事と考えれば「高くそびえた山、高くて平坦な土地、河川、乾燥地」するのが妥当ではないか?と考察できます。

一方、魏武注孫子は西暦201年から203年頃までに整理されたという説があるため、既に後に魏国となる北側を統治している状態を前提にして考えてみます。すると、魏は砂漠や乾燥地が多い北側にあり、攻めていく国は湿潤温暖な蜀・呉となります。

曹操の立場からすれば「乾燥地」は自国であるため考慮する必要性は低く、むしろ蜀・呉に多かったであろう「沼沢」への対策が重要だったと推察することもできます。そのため、実際に黄帝が駆使した軍事であることは無視して、「山岳、河川、沼沢、平地」を重視する内容として解釈したのではないか?と想像しています。

<注意>
孫子兵法の考察」ブログは、孫子兵法や孫武に関連する事柄について当サイトが考察した内容に過ぎません。学説的に評価されたものではないため、「こんな解釈をする人もいるんだな」程度でお楽しみ頂ければ幸いです。なお、新たな情報を得たり、新たな気付きがあれば、記事の内容を随時更新してきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。