孫子兵法 戦略と戦術の基本

孫子兵法は、その戦略や戦術について体系的には整理されておらず、断片的な記述が全十三篇の随所に分散されています。そのため、断片的な記述を統合しなければ、孫子兵法が説く戦略、戦術の全体像を把握することができません。このページでは、当サイトで解読した結果をざっくりと整理し、戦略、戦術の基本がわかるように図解にしてみました。この概要を見た上で当サイトの解読文を読めば、各教えの意図が理解しやすくなると思います。

1.基本方針

孫子兵法における基本方針は、其三1-1①「あらゆる範囲で採用する戦略、戦術のお手本は、自他を問わず、国家を完全な状態に保つことを上策と見なし、国家を打ち破ることは次策とする」で説かれた”自他問わず、完全な状態に保つこと”と思われます。

自他問わず、完全な状態に保つこと

基本方針とは、基本的な姿勢や考え方と言えるものであり、あらゆる事柄を決める基準となります。そうすると、戦略や戦術だけでなく、軍隊組織の運営から国家統治に至るまで、完全な状態に保つ方針に従って決定されることになりますが、全十三篇を読めば全般通して完全な状態に保つことが教えの前提にあるとわかります。

なお、補足しておくと、”国家”を完全な状態に保つこととあるため、国家の資源であるヒト・モノ・カネを損なわない姿勢と言い換えることができます。但し、「敵将軍の可愛がる者を殺害して心を痛めさせる戦術」があるように、損失を最小限に留めて、完全な状態に保てるヒト・モノ・カネを最大限にする教えになっています。つまり、完全な状態に保つことを”理想”とする姿勢であることがわかります。

2.目標

孫子兵法は侵略戦争を成功させる教えが主軸となっており、これは、九地篇等では侵略開始から敵国を攻め落とすまでのシナリオを提示したような内容であることからもわかります。そのため、孫子兵法における目標とは、完全な状態に保つ基本方針に従って、侵略した敵国を統治下に置くことと言えます。

侵略した敵国を統治下に置くこと

また、計篇で「中国全土を統一すれば戦争が無くなる意義」、用間篇で「中国全土を統一すれば戦争が無くなる道理」の解釈が得られるため、長期的な目標としては”中国全土の統一”があると言えそうです。

3.基本戦略

具体的な戦略や戦術が、完全な状態に保つ基本方針から外れないために基本戦略があります。それは作戦篇「敵に勝ちて而は強を益す」の「敵を抑えて自軍の強大さが増加する」です。最も大切なことは敵を弱体化させると同時に自軍が強大になっていくことで、優劣の差を効率的に広げていくことです。

下記の図は、戦闘によって敵兵を減らすと同時に自軍の兵士を増やして権勢に差を出していく事例になっていますが、軍事力の差を広げる要素は全て対象となります。軍事力の差が広がれば、両軍の権勢に差が出ることになって其三1-3①「戦うことなくして人の兵を屈する」の「せめぎ合うことなく敵軍を抑えつける」結果に至ります。

4.軍隊編制と保全

<軍隊編制>

孫子兵法の戦略、戦術を理解するためには、正攻法部隊と奇策部隊の編制イメージや基本的な役割を知っておかなければなりません。

ここで紹介した図は、当サイトの解読文から読み取った編制イメージであり、正攻法部隊は「隊列の型」や「陣形の型」のお手本に従い、状況に応じて色々なパターンがあったと思われます。

なお、「疾走させる戦車」は先制して場所を占有する場合や敵軍を後退させるための突撃に使われたようです。また「皮で覆った戦車」は武具や食糧等を運ぶ戦車と思われますが、確定はできていません。

これら戦車が各部隊を先導しながら行軍していくようです。ちなみに”将軍がいる場所”は明記されておらず、この図はイメージであることを加えておきます。

一方、奇策部隊は100人編制の中隊が一つの基準らしく、行軍中は正攻法部隊に組み込まれていたと推察されます。この奇策部隊を操る存在が「生きたまま敵を取得する間者(生間)」です。この間者は、狙う敵部隊の決定、出撃する時機の判断、敵兵を離反させる交渉等を担うことになります。

それぞれの役割は「奇正の戦術」において、正攻法部隊が防御を固めて攻撃すると見せかけ、敵部隊を巧みに誘導していきます。奇策部隊は予め隠れており、誘導されてきた敵部隊を武力で傷つけて攻め取ります。

<軍隊の保全>

侵略戦争に赴いた軍隊は、財貨、兵糧、物資が減っていくため、補給する手立てがなければ敵国で枯渇します。自国から補給部隊を送り続ければ国家が欠乏していくだけでなく、敵軍に自軍の枯渇を悟らせる結果になると説いています。そこで、”自他問わず、完全な状態に保つ”方策として、其二3-9①「敵に食む」の「敵国の町、村、里、集落を自軍が生活する拠り所とする」の教えがあります。

具体的には、敵国の里等を奪い取って陣地とし、その敵里等を損なうこと無く統治に至れば、平和的に食糧等を得る方策です。大切な考え方は、統治した敵里が富み栄えておれば、自軍に食糧等を提供する”ゆとり”があることです。

但し、孫子兵法においては、”富み栄えた敵里”ではなく”貧しい敵里”を狙い、その貧しい敵里を豊かにしていく方策を打ち出しています。貧しい敵里は敵将軍が軽視しているため防衛が甘いため其三1-3①「戦うことなくして人の兵を屈する」を実現しやすいのであり、さらに豊かにした実績をつくれば自国に服従させやすい利点があります。以下、貧しい敵里を豊かにしていく過程の図を掲載しておきます。

参考:貧しい敵里を統治下に置く過程

①貧しい敵国の里は、無理矢理奪い取るのではなく、まず手厚く富や食糧を与えます。その代わりに自軍が陣地にすることを認めさせます。

②その敵里近辺にある山の麓の木を伐採し、あり余る広く平坦な場所を出現させて、自軍が滞在できる場所を確保します。

③自軍の、若手の兵士達を使って開墾した平坦な場所で耕作し、貧しい敵里にも分け与えます。この時、敵人民に仲間意識が生まれて自軍に従う姿勢が強まると期待されています。

④その後、敵里内にも自軍が駐屯して、産物の技術を提供することで富を生み出す仕組みをつくります。その結果、完全に自国が統治する状態に至り、自軍は食糧や物資を得るだけでなく、その敵人民を自軍の兵士として働かせることもできるようになります。

このようにして不完全な状態の貧しい敵里を完全な状態に発展させることができれば、敵国にいるはずの自軍はヒト・モノ・カネが尽き果てることなく完全な状態に保ちつだけでなく、さらに強化することになります。これは基本戦略「敵を抑えて自軍の強大さが増加する」に従った組織運営に繋がっていくと言えます。

5.具体的な戦略

孫子兵法が説く具体的な戦略は、敵国の里等を陣地として開拓し、敵国を弱体化させていくためのものです。下記図は、その狙いを解釈結果に従ってイメージ化したものですが、敵本拠地に対して猪突猛進したり、局地戦を繰り返して敵軍を減らすような考え方を否定し、圧倒的な権勢を掲げて敵将軍の戦意を喪失させることが狙いとなります。

<参考>其七4-3①「掠郷分衆、廓地分利、縣權而動
敵里を奪い取れば多人数の正攻法部隊に割り当て、陣地を開拓して統治して兵糧と飼料を各部隊に配分するのであり、開拓した陣地を繋ぎ止めて全軍の権勢が生じれば、自軍が行動し始めた時、敵軍に危険を感じさせることができるのである。

<❶迂直の計:敵軍の進路を妨害して陣地にする敵里に直進する戦略>

敵国において、自軍が里等を奪い取って陣地を開拓しようとすれば、当然ながら敵軍は妨害します。その時、両軍は先を争って里等を奪い合うことになりますが、狙った里を奪い取りやすくする戦略があります。それは、同盟を結んだ諸侯を分岐路にある「瞿地」に布陣させて、敵軍の進路を妨害して足止めするのであり、自軍は、敵軍から邪魔されることなく敵里に直進して数多くの陣地を開拓します。

これが所謂「迂直の計」であり、「敵軍の進路を妨害して陣地にする敵里に直進する戦略」です。下記図は、「迂直の計」を解釈結果に従ってイメージ化したものです。

<❷敵国を封鎖する戦略>

自軍が「迂直の計」によって強大化していく様子を見れば、敵国は他国から援軍を呼ぶかもしれません。そうなると基本戦略「敵を抑えて自軍の強大さが増加する」が不完全となるため、敵国が援軍を呼べなくなる戦略が必要となります。その概要を簡単に言えば、他国と行き来しやすい戦地「交地」を諸侯の軍隊で封鎖することになります。この封鎖によって、敵国は「軍隊の兵士数が減っていくしかない状態」に追い込むことができます。

参考:其十一6-12「交地也、吾將固其結

<❸城壁に囲まれた都市を攻め落とす戦略>

城壁に囲まれた敵都市を武力で撃つ戦略は劣るとされていますが、敵国を弱体化させる決定打を打つために、最終段階では城壁に囲まれた敵都市を攻め落とす戦略が必要となります。その概要は、敵都市の周囲を取り囲む里等を先に陣地に変えていき、狙った敵都市に対する包囲網をつくることです。

下記図は包囲網のイメージであり、周囲を取り囲む里等を完全に統治して服従させれば、包囲された敵都市は権勢が失墜した状態となり、敵都市に突入する戦術を仕掛けていく段階になったと言えます。

城壁に囲まれた都市を攻め落とす戦略の参考:其十一7-8「故其國可拔也、城可隋也

敵都市に突入する戦術の参考:其十一9-7「是故、始如處女、適人開戶、後如脫兔、適不及距

<❹合従策>

敵国を攻め落とす最終決戦では、圧倒的な権勢を掲げて敵将軍の戦意を喪失させるために合従策を実行します。合従策とは、自国と複数の諸侯が同盟を結んで連合軍を結成する戦略であり、弱体化している敵軍は、突如出現した連合軍を目の当たりにして敗北を確信することになります。そのため、連合軍は出現して権勢を振るうだけであり、後は、敵将軍と交渉して降服させることとなります。このように展開すれば其三1-3①「戦うことなくして人の兵を屈する」が実現したと言えます。

下記図のように、敵国を完全に弱体化させた状態で連合軍を出現させることが重要と推察されます。仮に敵軍に対抗する余力が残っており、連合軍と交戦することになれば、”自他問わず、完全な状態に保つ”基本方針に反することになります。

6.具体的な戦術

孫子兵法には複数の戦術が説かれており、さらに状況に応じた”工夫”も考慮すれば、そのお手本は相当な数が存在します。その全てが戦略実現のための手立てとなりますが、ここでは最も重要であろう「奇正の戦術」について”一例”のみ解説することとします。

<❶虚実について>

但し、「奇正の戦術」を成功させるためには「虚実」について知っておく必要があります。まずは、下記図にて「実の軍隊」と「虚の軍隊」のイメージを掴んでください。基本的には、自軍はしっかり整えて「実の軍隊」を保ち、敵軍は戦術等を駆使して「虚の軍隊」に変えていくこととなります。

<❷奇正の戦術を行うための軍隊配置>

「奇正の戦術」は、正攻法部隊が防御を固めて攻撃すると見せかけて敵部隊を巧みに誘導し、予め隠れている奇策部隊が、誘導されてきた敵部隊を武力で傷つけて攻め取ることです。これを実現するためには、戦地に変わる場所を予測して先制し、敵軍が到着する前に奇策部隊を隠しておく必要があります。

その軍隊配置は、下記図のように正攻法部隊の周囲を取り囲むように奇策部隊を配置することが基本となります。その上で、固定した戦車の隙間を抜けた先で隠れたり、無人に見える芋畑に落とし穴をつくってその周辺に隠れたりします。これら隠れ場所は実際に記述されている事例であり、その他にも多種多様な隠れ場所が登場します。

なお、奇策部隊は「山の図」に隠れている人であり、これは風林火山の一つ、其七4-2「不動如山」を表現しています。

<❸「実の軍隊」で敵軍を虚に追い込む>

「奇正の戦術」を成功させるために大切なことは、「実」の自軍で「虚」の敵軍と対峙することです。敵軍を「虚」に追い込む方法は、「敵将軍の可愛がる者を殺害して心を痛めさせる戦術」や「巧みに仕掛ける火災」の戦術など数多くの教えが登場します。

<❹逃亡する敵兵が出現する>

「虚」の敵軍が「実」の自軍と対峙した時、自軍の勢いに対して、命の危機を感じた敵兵は恐れ震えて逃亡します。この敵兵は当然ながら逃げ道を探すのであり、その逃げ道は、例えば”戦車の隙間”や”芋畑”など無人(虚)の場所となります。しかしながら、その”戦車の隙間”や”芋畑”の先で奇策部隊が隠れているわけです。

つまり、「誰もいない場所(虚の場所)がある」と、逃亡する敵兵に思わせることが重要であり、だからこそ、奇策部隊は山のように動かず静止して、その存在を敵兵に気付かせないようにするのです。

<❺逃亡する敵兵を誘導する>

逃亡する敵兵には、何も考えずに逃げるのではなく、”戦車の隙間”や”芋畑”の先で奇策部隊が隠れている可能性を疑う者もいると推察できます。この時、奇策部隊が山のように静止しておれば、”曇り空”から変化していく天気を正確に識別できないように、罠の真偽を判別できなくなるのです。

罠を疑いつつも、逃亡する敵兵は、背後から正攻法部隊が火災のようにどんどん攻め込んで逃げ場を奪い取るため、”戦車の隙間”や”芋畑”の先に進むしかありません。つまり、「確実に罠がある」と確信を持たせなければ、目先の危機である正攻法部隊がいない場所に向かって逃げることしかできないのです。

<❻奇策部隊の出撃>

奇策部隊を率いる「生きたまま敵を取得する間者」は、逃亡する敵兵が油断した一瞬の時期を見逃さず、激しい雷が突然一点目掛けて落ちるように奇策部隊を出撃させます。この時、いきなり武力で撃つのではなく、予め周囲を取り囲んだ状態をつくって一斉に出撃し、包囲することを優先します。

<❼さらに正攻法部隊で取り囲み、攻め取る>

奇策部隊が逃亡する敵兵を包囲すれば、その包囲をさらに誘導してきた正攻法部隊が取り囲み、敵兵の戦意を喪失させます。この時、敵兵が戦意を喪失すること無く歯向かうならば、奇策部隊が武器で傷をつけて動けない状態にします。

逃亡していた敵兵が身動きが取れない状態になれば、最後に「生きたまま敵を取得する間者」が出現して自国に寝返るように説得します。その結果、自国に寝返れば、世話役をつけて自軍の兵士として働かせることになります。

このようにして敵兵をどんどん自軍の兵士に変えていくことが「奇正の戦術」であり、まさに基本戦略「敵を抑えて自軍の強大さが増加する」に従った戦術と言えます。ここで紹介した奇正の戦術は一例ですが、これが基本的なやり方と言って良いでしょう。なお、孫子兵法には状況に応じた奇正の展開方法が説かれていますが、この一例を状況に適合させたものと言えます。

これら戦略、戦術の概要を知っておれば、ほぼ孫子兵法の全体感を掴んだ状態になっていると思います。その上で各解読文を読んで頂ければ、より深くご理解頂けるとものと期待しています。

<備考>
当サイトの原文は中國哲學書電子化計劃「銀雀山漢墓竹簡(孫子)」に従うことを基本とし、適宜、孫子(講談社)、新訂孫子(岩波)、七書孫子を参考にしています。