孫子兵法「呉越同舟」は、なぜ「周」を「舟」に置き換えられたのかを考察

孫子の名言の一つに「呉越同舟」があります。一般的には「呉国の人と越国の人は互いに憎み合っているが、同じ舟に乗って川を渡って、台風に遭遇した時に、彼らは互いに助け合う様子は左手と右手のようである」と解釈されます。

何ら問題の無さそうな名言ですが、実は竹簡孫子の原文では漢字「舟」に該当する箇所は「周」と記述されています。つまり、元々の意味は少し違ったわけです。その元々の意味については、「孫子の名言「呉人と越人の相い悪むや、其の舟を同じくして済りて風に遇うに当たりて、其の相い救うや左右の手の如し」の間違い」で解説しておりますので、興味のある方は御覧ください。

漢字「周」が連想させる意味

さて、ここでは漢字「周」は「舟」に置き換えられたのか?について考察してきます。この時、一般的な孫子兵法の原文は、三国志で有名な魏の曹操が編纂した「魏武注孫子」が元となるとすれば、漢字「周」を「舟」に置き換えた人物は曹操ではないか?と仮定できます。

すると、曹操の立場になって、漢字「周」から連想される事柄を挙げると「中華の中心である周王朝」が思い当たります。「中国の歴史2 都市国家から中華へ 殷周 春秋戦国 (講談社学術文庫、著:平勢隆郎)」によれば、春秋戦国時代以降の国々が正統主張の論戦を繰り広げていたことがわかりますが、そのような背景を踏まえると、漢字「周」は「正統国家」のイメージを連想させると言えそうです。

漢字「呉」と「越」が連想させる意味

次に、漢字「呉」と「越」が連想させる意味について考察します。それに伴い、「舟」を「周」に戻した状態をわかりやすくするため、便宜上、「呉越同舟」を「呉越同周」と言い換えてみます(こんな言葉はありませんのでご注意ください)。

さて、魏国の曹操の立場から見ると「呉越同周」の「呉越」とは、どの国を指すでしょうか?その答えは、三国時代における呉国であり、三国時代の呉国の領地は、春秋戦国時代の呉国と越国を覆っているため、「呉越」は三国時代の呉国を連想させると言えそうです。

「中国の歴史4 三国志の世界 後漢 三国時代(講談社学術文庫、著:金文京)」によれば、呉国が山越の統治に苦慮していた史実がわかることから、「越国人民と呉国人民は互いに中傷する」という部分は「山越人民と、呉国人民は互いに中傷する」と読み替えても良さそうです。このように解釈すれば、山越の統治に苦労していた呉国の様子を記述したことになります。

「呉越同周」が連想させる意味

以上のような解釈を統合すると、「呉越同周」は「呉国は中華を治める正統国家に等しい」と曹操に連想させた可能性があります。この連想は、曹操にとっては喜ばしくないため、赤壁の戦い後、大敗した曹操が”呉人と越人が手を組んだ水軍は手強いという教訓”を踏まえて、「周」を「舟」に置き換えた可能性はないか?と妄想しています。

竹簡孫子も、一般的な孫子原文も、いずれも解釈結果に大差はありません。だからこそ、わざわざ漢字を置き換えた理由として、「呉国は中華を治める正統国家に等しい」と連想させない記述への修正はあり得るのではないか?と感じます。

参考までに該当箇所の原文を掲載しておきます。ここでは「呉越同舟」、「呉越同周」と簡略化して解説していますが、原文で丁寧に比較しても結果は同様です。ここでは、わかりやすくするため「呉越同周」という表現を使用したことをご理解ください。

  • 竹簡孫子   「越人與吳人相惡也、當其同而濟也、相救若左右手」
  • 一般的な原文①「吳人與越人相惡也、當其同而濟遇風、其相救也、如左右手」
  • 一般的な原文②「越人與吳人相惡也、當其同而濟也、相救若左右手」
<注意>
孫子兵法の考察」ブログは、孫子兵法や孫武に関連する事柄について当サイトが考察した内容に過ぎません。学説的に評価されたものではないため、「こんな解釈をする人もいるんだな」程度でお楽しみ頂ければ幸いです。なお、新たな情報を得たり、新たな気付きがあれば、記事の内容を随時更新してきます。

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