孫子の名言「夫れ兵の形は水に象る」の間違い

孫子兵法「虚実篇」の「夫兵刑象水」(原文:中國哲學書電子化計劃「銀雀山漢墓竹簡(孫子)」)は有名な名言の一つです。軍隊は水の変化をお手本にして動かすことを説いたものであり、表面的な範囲では完全な間違いとは言えないものの、その言葉に込められた”意味”に間違いが含まれています。なお、一般的な原文では「刑」は「形」として「夫兵形象水」とされています。

参考:其六6-1 夫れ兵は水に象りて刑めるなり。

一般的な書き下し文及び解読文

一般的な書き下し文夫れ兵の形は水に象(かたど)る。
一般的な解読文そもそも軍隊の形は水の形のようなものである。

一般的な解釈は、軍隊の形は水の形をお手本にすることが説かれており、例えば戦場の地形等に柔軟に適応するような、変幻自在な軍隊の在り方がイメージされているようです。しかし、当サイトが辿り着いた解読方法(参考:孫子兵法の構造と解読方法)によって考察していくと、そのような意味では説いていないことがわかります。

一般的な解釈に対する疑問点

この句に対する疑問点は、まず、一般的な解釈では「無形に至る」を「最高の極致になれば軍隊は形が無くなる」と解読しているため、記述内容に矛盾が生じることになります。

つまり、「無形に至る」では「軍隊は形が無くなる」と記述したにも関わらず、この句では「軍隊の形は水の形をお手本にする」とするため、形が存在することになります。

結果的には「無形に至る」の句は「孫子の名言「微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る」の間違い」で解説したように軍隊の形が無くなる教えではないため矛盾はありませんが、一般的な解釈だけを読んでいるとこの矛盾点をどのようの理解するべきか迷うことになります。

当サイトにおける解釈結果と理由

書き下し文夫れ兵は水に象りて刑めるなり。
解読文そもそも、軍隊は水になぞらえて整え治めるのである。

解釈を一意に定める手掛かりを得る方法について

この句を解釈する時は、まず最初に、一般的な原文の漢字「形」が後世に置き換えられたものであり、元々は「刑」と記述されていたことを把握し、尚且つ「孫子の名言「勝者の民を戦わしむるや、積水を千仞の谿に決する若き者は、形なり」の間違い」で説明したように”パターン化する概念”が前提にあると認識することが大切です。

そして、これは試行錯誤を繰り返すことで判明することでもありますが、この「夫兵刑象水」は八通り存在する解読文の内、一通り目の解読文だけを考えていても決して一意に意味が定まりません。孫子兵法の特徴として、一句の文字数が少ないほど解釈の幅が広がり、文字数が増える毎に意味が限定されていきます

つまり、この「夫兵刑象水」のように文字数が少ない句は、解釈できる幅が広いため、意味を限定するための”何らかの要素”が必要となるのです。その”何らかの要素”は、多くの句においては、話の流れがそれに該当します。しかし、この句は、新たに話が始まる展開であり、話の流れから”何らかの要素”を掴むことは困難となっています。

そこで、「夫兵刑象水」の一通り目の解読文はその解釈を仮決めしておき、残り七通りの解釈を試みて無事に八通りの解釈が得られるならば、その一通り目の解読文は正しかったと判断する方法を取ります。つまり、”何らかの要素”を残り七通りの解読文から得るのです。

「夫兵刑象水」 一通り目の解釈を仮決めする

この句の一通り目の解釈するにあたり、まず孫子兵法において「水」で喩える事柄を整理しておきます。

「水」の喩えがよくわかる教えは、其四4-4「勝兵如以洫稱朱、敗兵如以朱稱洫」であり、漢字「洫」の“耕作地の用水路”の解釈から整理できます。

漢字「洫」の詳しい解説は「孫子の名言「勝者の民を戦わしむるや、積水を千仞の谿に決する若き者は、形なり」の間違い」の「一つ前の句「勝兵如以洫稱朱、敗兵如以朱稱洫」について」にありますので、そちらをご覧いただくとして、ここでは結論だけ記述します。

其四4-4「洫」の解釈を整理すると、「水」は兵士(人民)の喩えになっている場合と、富の喩えになっている場合の二通りがあります。この「夫兵刑象水」においても、いずれかの喩えになるはずですが、漢字「兵」があるため兵士の喩えになるだろうと仮決めしておきます。すると漢字「兵」は”軍隊”か”戦士”の意味になるとだけ、ここでは認識しておきます。

次に、漢字「刑」について考察しますが、”パターン化する概念”を持って「兵」に何かする動詞になることは漢字の並び順から察しがつきます。そして、最も適合しそうな意味として”整え治める”があることに気が付きます。すると連鎖的に漢字「兵」は”軍隊”の意味となり、”軍隊を整え治める”という解釈が得られます。

ここまで解釈すると、「水」をお手本にして”軍隊を整え治める”文意が浮かび上がってくるのであり、漢字「象」を確認すると”なぞらえる”という類似した意味が採用できると気付きます。その結果、「夫れ兵は水に象りて刑めるなり」で「そもそも、軍隊は水になぞらえて整え治める」と解読できます。

このようにして筋の通った解読文は得られましたが、「軍隊は水になぞらえて整え治める」が意味する事柄までは明らかになっていません。つまり、ここまでの解釈だけでは、この解読文が正しいのか否かを判別する材料がないのです。

「夫兵刑象水」残り七通りの解釈をして一通り目を確定する

一通り目の解読文「軍隊は水になぞらえて整え治める」は仮に正しいとして、残り七通りの解読文を解読していきます。それぞれの解読方法については、冗長になるためここでは解説しませんが、解読根拠にご興味をお持ちの方は「孫子兵法の構造と解読方法」と其六6-1「夫兵刑象水」の「解読の注」をご覧になってください。ここでは残り七通りの解読文のみ紹介します。

「夫兵刑象水」残り七通りの解読文

②兵士となる成年に達して役務や肉体労働に従事する人民は、自国を真心のある法規や決まりで整え治めれば、耕作地の用水路に等しくどんどん人口を増やすのである。

③人民達を鞭打つ処罰を行って傷つければ、水の氾濫のように自国から離反するのである。

④そもそも、水の氾濫は、人民達を傷つけて殺す現象である。

⑤人民達を傷つけて殺す水の氾濫は、水没させて兵士達を戦死させるのである。

⑥兵士達を水没させるように奇策部隊と正攻法部隊で獲物となった敵部隊を取り囲む奇正の戦術は成功するのである。

⑦奇正の戦術が成功すれば、軍隊は水の流れのようにどんどん人数を増やすのである。

⑧この軍隊を整え治める時は、水を氾濫させてあぜ道の割れ目を満たすように人民で編制した軍隊の周りに奴隷を束縛することなく配置させるのである。

結果的に、上記のように七通りの解読文が仕上がったため、一通り目の解読文「軍隊は水になぞらえて整え治める」は正しいと判断できました。

参考までに判断に至る要点を記しておくと、漢字「兵」は解読文③までは”戦士”の意味でも良さそうですが、解読文⑧までの全体をみると”軍隊を整え治める”ために解読文②と解読文③の教えがあるのだろうと解釈できます。何よりも解読文⑧が「この軍隊を整え治める時は、」と始まるため、話の展開として適当だったと言えそうです。

八通りの解読文全てを大きな視点で見れば、軍隊をつくるために人民を整え治める教えと、その人民が従事する軍隊によってさらに兵士(人民)を増やす教えと、兵士数が増えた軍隊を整え治める教えの三つにまとまっていることがわかり、その全てが「水」をお手本にして整え治める内容になっています。

この結果、一通り目の解読文「軍隊は水になぞらえて整え治める」の意味が、はっきりとわかるようになります。

簡単そうな一句ですが、とても奥深い意味を持った一句だと言えます。

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