孫子の名言「微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る」の間違い

孫子兵法「虚実篇」の「微乎微乎、至於无刑、至於無聲」は最も有名な名言の一つです。最高の極致に達した軍隊の在り方を説いたと解釈されており、その言葉の格好良さも相まって人気が高いように感じます。しかし、一般的な解読文は詩的な表現で留まっており、具体的な内容はよくわらない名言とも言えます。なお、一般的な原文では「无」を「無」、「刑」は「形」とし、「神乎神乎」が入って「微乎微乎、至於無形。神乎神乎、至於無聲」とされています。

参考:其六2-6 微なる乎、微かなる乎、刑を无せしめば至りを於せしめ、至りを於せしめば声を無せしむなり。能は故るを為すものあらしめば、適は司うこと命ずるなり。

一般的な書き下し文及び解読文

一般的な書き下し文微なるかな微なるかな、無形に至る。
神なるかな神なるかな、無声に至る。
一般的な解読文微妙なことか、微妙なことか、最高の極致になれば軍隊は形が無くなる。
神秘なことか、神秘なことか、最高の極致になれば軍隊からは音が消える。

一般的な解釈は、おそらく、軍隊を操る技術が最高の極致に達すれば、敵軍は自軍の形を識別できない状態となり、発する音が聞こえないため自軍の居所が掴めない、といった意味合いに受け取っているように思われます。何となく忍者っぽさを感じる解釈ですが具体性がないため、煙に巻かれたような名言です。

一般的な解釈に対する疑問点

この句に対する疑問点は、”軍隊の形が無くなる”と”軍隊から音が消える”とは、具体的にはどのような状態を指すのか?です。

”軍隊の形が無くなる”と記述したところで、物質的に軍隊は存在しているため形がなくなることはありません。また、”軍隊から音が消える”と記述したところで、音の振動を伝える空気が存在する以上、軍隊が動けば必ず音を発します。

細かい指摘だと思われるかもしれませんが、記述された内容を客観的に受け取る姿勢がなければ、知らぬ間に思い込みが働いて疑問を感じなくなってしまいます。

次の疑問点は、「微乎微乎」について、”微妙なことか、微妙なことか”といった感じで簡単な解釈しかなされていませんが、一体”何が”が微妙なのか、よくわかりません。語気助詞「乎」を使っているため何らかの感情を表現しているはずですが、感情を表現しているのであれば、その感情を引き起こす源となる描写がどこかにあるのではないか?と推察されます。

当サイトにおける解釈結果と理由

書き下し文微なる乎、微かなる乎、
刑を无せしめば至りを於せしめ、
至りを於せしめば声を無せしむなり。
解読文なんと精緻で巧妙な丸太と石の道理を用いる技術なのだろう、
敵軍は武力で撃つべき自軍の虚がはっきりしないだろう、
陣形の型を蔑ろにさせれば敵軍を最も極まった状態に追い込み、
敵軍を最も極まった状態に追い込めば
軍中で用いる鐘と太鼓を敵兵達に無視させるのである。

話の流れを掴む

この句は、一つ前の其六2-5「善守者、適不知所攻」から話が続いているため、まずは話の流れを掴んで置くことが大切です。そこで下記に其六2-5の四通りの解読文を挙げておきます。

其六2-5「善守者、適不知所攻」 四通りの解読文

①正しい方法を固く守って実行する兵士達は、正しい方法を学習して記憶し、大いに丸太と石の道理に順応したのである。

②正しい方法を記憶して、大いに自軍に順応する兵士達は、敵軍を武力で撃つ正しい方法の知識を持つのであり、防備のための兵士として立派に整えるのである。

③防備のための兵士として立派に整える将軍は、堅固な実の軍隊に達する丸太と石の道理を理解しているのであり、兵士達を大いに順応させるのである。

④立派に整えて防御する正攻法部隊は、武力で撃てる自軍の虚を、敵軍に識別させることが無いのである。

この解読文の結論は、④「武力で撃てる自軍の虚を、敵軍に識別させることが無い」であり、これを実現する要因は③「将軍は、堅固な実の軍隊に達する丸太と石の道理を理解しているのであり、兵士達を大いに順応させる」です。

すると、続く「微乎微乎、至於无刑、至於無聲」では、丸太と石の道理を使って、敵軍に自軍の虚を識別させない方法を詳しく説くか、「武力で撃てる自軍の虚を、敵軍に識別させることが無い」から続く新たな展開が出現するだろうと推察できます。

「微乎微乎、至於无刑、至於無聲」について

この句は、漢字「无(無)」と漢字「無」が現代の日本語で多用される”無い”の意味だけでなく、「蔑ろにする」や「無視する」の意味もあると知れば、解釈への糸口が一気に見えてきます。

このように”知っているつもり”の漢字であっても、漢和辞典で調べて確認する姿勢が大切なことがよくわかる一句です。

また、一般的な原文で「形」と置き換えられている漢字「刑」について、「孫子の名言「勝者の民を戦わしむるや、積水を千仞の谿に決する若き者は、形なり」の間違い」で説明したように”パターン化する概念”になると認識しておくことも大切です。

すると、「无刑」は何らかのパターンを無視することであり、「無声」は何らかの音を無視することだろうと、何となく察しがつくようになります。しかし、この「无刑」と「無声」の解釈は一旦保留しておき、先に「微乎微乎」を確定させて、文意をより明確に浮き上がらせます。

「微乎微乎」について、まずは素直な姿勢で原文を見れば、「微乎」が二回繰り返されていると思うはずです。また、漢字一字には複数の意味がある以上、二回繰り返される「微乎」が二回とも同じ意味になると考えるのは思い込みに過ぎません。そのため「微乎」と「微乎」は同じ漢字であっても、異なる意味になる可能性の方が高いと考えて解釈していき、結果的に同じ意味になるか否かを検証した方が素直な姿勢と言えるでしょう。つまり、どのように考察しても「微乎」に対して一つの意味しか無いと検証できれば、「微乎」は二回繰り返すことで強調していると判断するのです。

その上で、一つ前の其六2-5からの話の流れを念頭において漢字「微」を確認すれば、”精緻で巧妙なさま”と”はっきりしない”の二つが適合しそうなことに気付きます。

つまり、1つ目の「微」の“精緻で巧妙なさま”は、其六2-5③「堅固な実の軍隊に達する丸太と石の道理」を働かせる「技術」の巧妙さを表現したと考察できます。また、技術に対する感情を漢字「乎」が表現していると考察すれば”詠嘆を表す語気助詞”が相応しいと言えます。結果、「微なる乎」で「なんと精緻で巧妙な丸太と石の道理を用いる技術なのだろう」と補って解読できます。

次に、2つ目の「微」の“はっきりしない”は、其六2-5④「立派に整えて防御する正攻法部隊は、武力で撃てる自軍の虚を、敵軍に識別させることが無いのである」における敵軍の心境を記述したと考察できます。また、敵軍の心境を想像しているため漢字「乎」は”推測を表す語気助詞”が相応しいと言えます。結果、「微かなる乎」で「敵軍は武力で撃つべき自軍の虚がはっきりしないだろう」と補って解読できます。

これら解釈によって「微なる乎、微かなる乎」は「なんと精緻で巧妙な丸太と石の道理を用いる技術なのだろう、敵軍は武力で撃つべき自軍の虚がはっきりしないだろう」と具体的に解読することができます。そして、「无刑」は何らかのパターンを無視すること、「無声」は何らかの音を無視すること、これらの”何らか”について考察する準備が整ったことになります。

ここで「微なる乎、微かなる乎」で描写された場面を、改めてよく考えてみます。

まず、「なんと精緻で巧妙な丸太と石の道理を用いる技術なのだろう」は、丸太と石の道理を使った自軍は激しい勢いを生じた状態で、敵軍と対峙しています。

次に、「敵軍は武力で撃つべき自軍の虚がはっきりしないだろう」は、激しい勢いを生じた自軍に対して、敵兵達が攻めどころがわからないと感じている状態です。”攻めどころがわからない”ということは、その時点における敵軍の状態、戦術、計画等が通用しないと自覚していることになります。

この場面に基づいて、敵兵達が無視する何らかのパターンは何か?、無視する何らかの音は何か?を考えてみると、後者「無声」の方は、漢字「声」に”軍中で用いる鐘と太鼓”の意味があるため「軍中で用いる鐘と太鼓を敵兵達に無視させる」の意味になるとわかります。

続いて前者「无刑」の方は、”手本”の意味を採用して”戦略、戦術のお手本”と考えるか、”鋳造”の意味を採用して”何らかの型”と考えることなります。”戦略、戦術のお手本”で適合しそうな感じはありますが、そもそも”戦略、戦術のお手本”を扱う存在は将軍等であって、一般の兵士達ではないと思われます。そのため、”何らかの型”に絞り込んで他句から適合しそうな記述を探し出すことになります。

その結果、其五4-5④「刑」の「陣形等の型」という解釈があり、其五4-5④「将軍は、敵軍からの攻撃を誘う陣形等の型を使って攻撃を仕掛けてくる敵部隊を出現させて、必ず動き出したおとり部隊の後を追わせる」の解読文から類推すれば、戦闘中は陣形等の型を使って兵士達を動かしていることがわかります。これに基づけば、最初は敵将軍が指示した「陣形等の型」に従って自軍と戦闘するが、一向に「自軍の虚」を撃てないため、徐々に信じられなくなって蔑ろにしていくのだろうと推察できます。つまり、漢字「刑」は「陣形等の型」と解読できます。

ここで、漢字「无」を”無視する”の意味から「蔑ろにする」の意味に変更していますが、その理由は「陣形等の型を無視する」ことと「軍中で用いる鐘と太鼓を敵兵達に無視させる」は、描写が異なるだけで起こる現象は同じであるため、「至於无刑」と「至於無聲」の間に”時間の流れ”があって、「軍中で用いる鐘と太鼓を敵兵達に無視させる」に至る変化を説いているのだろうと推察できるからです。つまり、「至於无刑」の原因が生じたから、「至於無聲」の結果になったという流れが見えてくるのです。

このような”時間の流れ”が見えてくると、二つある漢字「至」は、その流れを表現する役割になるのではないか?と察しが尽きます。結論を言えば、二つの「至」で”最も極まった状態”の意味を採用すると、「无刑」という原因が生じたから最も極まった状態となり、最も極まった状態になったから「無聲」の結果になった、と”時間の流れ”を表現できます。

結果、書き下し文「刑を无せしめば至りを於せしめ、至りを於せしめば声を無せしむなり」で「陣形の型を蔑ろにさせれば敵軍を最も極まった状態に追い込み、敵軍を最も極まった状態に追い込めば軍中で用いる鐘と太鼓を敵兵達に無視させるのである」と解読できます。

この解読文より、堅固な自軍の勢いを激しくすることで敵兵達に「陣形等の型」が通用しないと思わせれば、敵将軍からの指示(鐘や太鼓)を無視するようになるため、敵軍は内部から崩壊することを説いたと解釈できます。この解釈の妥当性は、其六5-2①「刑兵之極、至於无刑」を「整え治めた正攻法部隊の勢いを最高限度にして戦地に赴かせるのであり、戦地に行き着けば敵軍に陣形等の型を無視させるのである」と解読できる点からも確認できます。

<補足>
この句は、「故能為適司命」まで含めてひとまとめになっており、その意味はそれで、有能な将軍が意図的に勢力を削いだおとり部隊を出撃させれば、敵将軍は偵察する任務を敵部隊に指示するのである」です。つまり、敵将軍からの指示を無視して、敵兵達が自分自身の頭で判断するようになった時、おとり部隊を出撃させれば容易く罠に引っ掛かることとを説いたと思われます。
残り、三通りの解読文でも「おとり部隊」を駆使した奇正の戦術について詳しく説かれており、とても興味深い内容となっています。
<備考>
当サイトの原文は中國哲學書電子化計劃「銀雀山漢墓竹簡(孫子)」に従うことを基本とし、適宜、孫子(講談社)、新訂孫子(岩波)、七書孫子を参考にしています。

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