孫子の名言「是の故に百戦百勝は善の善なる者には非ざるなり」の間違い

孫子兵法「謀攻篇」の「是故百戰百勝、非善之善者也」は最も有名な名言の一つです。この句は曖昧な言葉で解釈されているためか、解釈する人によって多種多様なニュアンスが加えられています。しかし、既出の教えをよく確認して解釈すれば、理に適った教えが出現します。

参考:其三1-2 百たび戦いて百そ勝たんとすれば故あるに是き、之を善しみて善なる者に非ざるなり。

一般的な書き下し文及び解読文

一般的な書き下し文是の故に百戦百勝は善の善なる者には非ざるなり。
一般的な解読文従って、百回戦闘して百回勝利を得るのは最高に優れた将軍ではない。

一般的には、百戦して百勝できても自軍は弱体化していくため、百一戦目で敗れる可能性があるとしたり、次句の「不戰而屈人之兵、善之善者也」と混同して戦わずに勝つことと解釈されることが多いです。解釈結果だけを見れば全て一理あるのですが、このように解釈が定まらない一番の要因は、漢字「勝」の意味を掴めていないからではないか?と推察します。

一般的な解釈に対する疑問点

これは疑問点というよりも大前提の話になりますが、一般的な孫子兵法の解釈では、漢字「勝」は無条件に「勝利」の意味として扱われているように感じます。しかし、漢和辞典「漢辞海」を見ると漢字「勝」には20個の意味が掲載されており、文意に合わせて最適な意味を採用しなければならないのです(当サイトの解読文では「勝利」の意味を採用した句は極少数です)。

つまり、「勝」にも色々な「勝」があり、そのニュアンスを汲み取ることが大切なのです。これは漢字「勝」だけでなく、全ての漢字において心得ておかなければならない点です。

さて、一般的な解釈に対する疑問点ですが、まず「勝」を”勝利”と解釈した場合、勝利とはどのような状態を指すのかが曖昧です。戦争全体に対する勝利であれば、敵国を統治下においた状態や敵国を滅ぼした状態など比較的わかりやすいのですが、戦争の中の各戦闘に対する勝利を考えようとすると勝敗の定義が不明瞭なのです。一般的な解釈では戦争ではなく百回戦闘すると解読していますが、勝利の定義がないため百回勝利することの意味がわからないままになっています。

次に、「善の善なる者」で”最高に優れた将軍”と解釈されていますが、他句で”優れた将軍”や”有能な将軍”等と解読する箇所があり、これらとの違いが不明瞭になっています。このように考えると、「善」二つを重ねることで本当に”最高”や”最善”といった意味になるのかという疑問が湧いてきます。

当サイトにおける解釈結果と理由

書き下し文百たび戦いて百そ勝たんとすれば故あるに是き、
之を善しみて善なる者に非ざるなり。
解読文敵と百回せめぎ合って全て打ち破ろうとすれば災いが生じる事態に至り、
完全な状態に保つことを大切にする、思いやりのある優れた将軍ではないのである

この句の意味を知るためには、孫子兵法における「戦」と「勝」の意味の使い分けを整理しなければなりません。まず「戦」には、敵軍と優劣を争う戦い方の意味と、敵軍とせめぎ合う戦い方の意味の二つがあり、孫子兵法が推奨する戦い方は前者です。これは軍隊規模や軍隊の勢い等で敵軍を圧倒することで敵兵達を恐れ震えさせて逃亡したい気持ちを生じさせる戦い方です。

次に「勝」が示す戦い方を大きく分類すると、敵軍よりも優勢になる意味と、敵軍の攻撃に持ち堪える意味と、敵軍を武力で打ち破る意味の三つがあります。孫子兵法が推奨する戦い方では、主に、全軍が主語になる場合は一つ目、正攻法部隊が主語になる場合は二つ目、奇策部隊が主語になる場合は三つ目の意味になります。また、全軍又は正攻法部隊で敵軍を打ち破ろうとする戦い方は、不適切な選択だとしています。

<補足>
「勝」の使い分けについて、孫子兵法が説く「奇正の戦術」の一例で説明すると
全軍の勢いで敵軍よりも優勢になった結果、出現した逃亡する敵部隊を”獲物”とする
②”獲物となった敵部隊”は、奇策部隊が隠れている場所まで正攻法部隊が持ち堪えながら誘導する
③隠れていた奇策部隊は、誘導されてきた敵部隊を武力で傷つけて攻め取る

これは一例ですが「勝」の使い分けがわかると思います(太字部分は全て「勝」の意味)。

これら解釈を得た上で、「戦」と「勝」の使い分けから適切な意味を選択するためには文意を掴まなければなりません。一つ前の句で「完全な状態に保つことを上策と見なし、打ち破ることは次策とする」とした上で、百戦百勝を否定していることから敵を打ち破ることに繋がる意味だと推察できます。すると「勝」は、正攻法部隊によって敵軍を武力で打ち破る不適切な選択を指すと仮定することができて、その結果、必然的に「戦」は正攻法部隊で敵軍とせめぎ合う意味となります。

この仮定を踏まえて、「是故」の意味に注目することが大切です。「是故」と記述されていると、何となく接続詞として解読したくなりますが、「是」も「故」も接続詞として解読する句は極少数です。ここでは「故」は”災い”、「是」は”至る”の意味を採用して「災いに至る」と解読すれば、”敵軍とせめぎ合って正攻法部隊によって敵軍を武力で打ち破ろうとすれば災いに至る”という辻褄の合う解釈が出現します。次句の「戦うことなくして人の兵を屈する」の「せめぎ合うことなく敵軍を抑えつける」との繋がりを考えても適当な解釈と言えます。

最後に二つの「善」の意味についてですが、まず「之」に対する解釈から行います。一つ前の句の「完全な状態に保つことを上策と見なし、打ち破ることは次策とする」から話が続いているため、「之」は、其三1-1①「全」の「完全な状態に保つこと」を指示する代名詞と解釈できます。

すると一つ目の「善」は”大切する”の意味を採用するのが適当だとわかります。つまり、この句は、敵軍を打ち破ろうとして災いを起こす将軍は、「完全な状態に保つことを大切にする将軍ではない」と否定しているのです。

そして、二つの「善」は、一般的な解釈と同様に”優れているさま”の意味だけでも良いと思われますが、さらに踏み込んで「完全な状態に保つことを大切にする将軍」とはどのような存在か?と考えてみると、其一2-6①「将軍とは、実践できる知恵があり、信頼があり、思いやりがあり、勇敢さがあり、厳格さがあるのである」の”思いやり”がある将軍と言えます。そこで「善」の”思いやりのあるさま”も含めた掛け言葉と解釈して、「思いやりのある優れた将軍」と解読しました。

これら全ての解釈結果を統合すると「敵と百回せめぎ合って全て打ち破ろうとすれば災いが生じる事態に至り、完全な状態に保つことを大切にする、思いやりのある優れた将軍ではないのである」となります。一般的な解釈と比して具体的な教えとなっており、尚且つ話の流れも前後と繋がりが良く、そして、孫子兵法全体の教えの意味とも整合した解読文となっています。

<補足>
このように「是故百戰百勝、非善之善者也」を解釈すると、次句「戦うことなくして人の兵を屈するは、之を善しみて善なる者なり」(一般的な書き下し文は「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」)も同様に解釈して「せめぎ合うことなく敵軍を抑えつけるのは、完全な状態に保つことを大切にする、思いやりのある優れた将軍である」という明確な解読文が得られます。
<備考>
当サイトの原文は中國哲學書電子化計劃「銀雀山漢墓竹簡(孫子)」に従うことを基本とし、適宜、孫子(講談社)、新訂孫子(岩波)、七書孫子を参考にしています。

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